朽葉考集録

めめとちゃんの雑記帳です

没個性、と笑うなかれ

 問1。あなたの知るキャラクターから個性を剥奪していくとして、それはどこまで"そのキャラクター"と定義できるだろうか?

 問2。では、キャラクターから個性を剥奪し続けて、そこに何が残るだろうか?

 問3。キャラクターとは、何だろうか?また、個性とは?


 今回は「遙」考察の補完も兼ねて、キャラクターとその個性について思索していこうと思う。多分「遙」に直接触れることは少ないので、一読してもらえれば幸いだ。


 前提として、今回文中で用いる「キャラクター」とは"ある物語の中に登場する、なんらかの特徴を持ち合わせた個人"とする。具体的に名前を出すと後でややこしくなる気がするので。


〈問1〉
 まず、問1について。キャラクターには何かしらの特徴があるものだ。服装、髪型、性格、口調、バックボーン、なんでもいい。重要なのは、私達がそれによってキャラクターをそのキャラクターと認識できるか否かだ。


 例えば、よくある入れ替わり物のストーリーでは、キャラクターの外見が全く別のそれとなっても、私達は口調や性格からそれがどのキャラクターかを同定できる。

 つまり、個性とは一つ欠けてもいけない物、というわけではない。ある程度残ってさえいれば、私達はそのストーリー上のキャラクターAを判別できるのだ。

 である以上、ここからここまで判別可能、と明確に決めるのは難しい。それは主観的な問題だからだ。故に、問1に対して明確な解答は無い、と言える。





〈問2〉
 では、極端な話としてそのキャラクターから個性を全て取り除いてみよう。服装、髪型、性格、顔の造形すらも取り除く。そこに残るのは、原型を留めないマネキン人形のようなナニカだ。


 ストーリー上の一個人であることは大前提なので、それは分かる。だが、一切の特徴が明示されず、完全に個性を喪失した状態。それは何だろうか?

 それは、繰り返すが「マネキン人形」なのだ。創作者達はそこから肉付けを施し、一つのキャラクターとしての個性を保証し、新たな登場人物として世に放つだろう。

 つまるところ、個性を喪失した個人からキャラクターは作り上げられるのだ。そして、個性を奪うということはキャラクターをその「始まり」であるマネキン人形に戻す事に他ならない。

〈問3〉
 そのマネキン人形は無数にいる。キャラクターが生み出される数だけあるのだから。つまりマネキン人形という「全体」から特徴を肉付けされた個体が特異な「一」として出来上がるのである。

 だから、個の「一」が個性を喪失し、全く他と違いのない没個性な「無」へ近付くことは、存在を非存在へ限りなく近付けつつ、己を「全体」という膨大な「一」に揺り戻すことになる。

 言い換えれば、個はどれほど特徴を持ち合わせたところで全体の一要素であり、その特徴を減殺しようとも最終的には「全体のストーリーの一部である」という、その一点に帰結する。マネキン人形は顔の無い個に過ぎないが、それでもストーリー上の一部なのだ。

 そして、そんな顔の無い個の一つに一時的な名を貸し与え、全体にして無数の個である状態から独立させる。この場合の「名」とは性格であり、顔であり、服装であり……要するに、「キャラクターをキャラクターと同定しうる要素」そのものだ。

 それを幾ら捨てようと、元々「全体」の一部であったことは揺るがない。人にとって死が「追い越し不可能」であるなら、キャラクターにとっての誕生とは「巻き戻し不可能」な点である。

 顔の無い個も、特徴あるキャラクターも、ストーリーという全体の一部であることに変わりは無いのだ。個性とは、単にストーリーのフレーバーに過ぎないが、それを重要視する人が多い。これはキャラクター性への依存とも言えるし、個性への憧れとも言えるだろう。


〈おわりに〉
 私としては、キャラクター無しにもストーリーは描けると考えている。薄い個性の「個」は必要かもしれないが、重要なのはその世界そのものだと思うからだ。だから、その理論作りとして今回の記事を書いてみた。

 おそらく、否定的な意見の人もいるとは思うが。

雑記・その3くらい

 鬱蒼とした山林を眼下に、雲を飛び越した。現在私は鋼鉄の鳥籠の虜囚、というわけだ。普段であれば、窓の外には北海道の延々と続く濃緑の原生林があるのだが、生憎外は雨。そのような景色は望むべくもない。というわけで、せめて想像の世界では無窮の大空に飛んでいこうか。

 私は名前を持たない。現実世界の私は名前があるのだろうけど、ネットの海に揺蕩う私に、名前はない。名前とは、いわばその人の目印のようなものだ。私達はそれ無しには物体を認識できない。

 一例を挙げれば、ハンドルネームだ。公的に戸籍へ登録されている名前には「名前」以上の価値があるかもしれないが、匿名掲示板……5chや各種SNSでは極論「名無しさん」でも何ら支障はないのである。

 それでも、わざわざコテハンを用意したり、何かしら意味のある単語を組み合わせて名乗る。主体的に、画面の向こうへ自らの存在を訴えかけるのだ。

 反対に言えば、主体的に名乗る必要が無いのなら、そこには名前の無い個人が残る。それは存在の無い声、幽霊と呼んでもいいかもしれない。

 だからこそ、いまここにいる「筆者」という私に名前はない。あなたはそれに「朽葉考」と、あるいは「めめとちゃん」と名付けて結構だし、なんなら「空亡」でもいいかもしれない。ありていに言えば、この文を誰が書いているかなんて同定できないのだ。例えば、ゴーストライターの執筆したものかも知れない。

 本来匿名になるということは、現実世界で口にできない事をネットの海へ投射する、それが目的ではなかっただろうか? にも関わらず、僕らは新たな名前を掲げ、それに意味を込めてネットの海、その標識となっている。

 普段「朽葉考」と名乗っているからこそ、このブログでは名前の無い個人として思考を吐き出せる。名前の無い個人とは、名前の無い怪物でもあるのだ。それは世界に如何なる怨嗟も振り撒く事ができるし、それを咎められる必要もない。私がどれだけ世界を祈ろうとも、呪おうとも、世界は変わりはしない。なぜなら、私には存在が無いからだ。





 「祈る」という言葉が出てきたが、今度はこれについて語りたい。祈りは、こと個人への祈りは大きな枷となりえる。なぜなら、願いとは「かくあってほしい」という願望だが、祈りは「かくあれ」「かくあらん」という当人を束縛する「呪い」へと変貌しうる。

 想う事は強い。言葉は言霊が宿るというが、言葉を向けられた当人にとっては、それが重圧となる。あなたのあなたらしさは、「祈り」ではないだろうか?「呪い」ではないだろうか?

 この文に意味はない。祈りも呪いもなく、生きる事が正しい友言わない。ただ、祈りと呪いは表裏一体、想いは重い、それだけのことだ。ちょっとだけ、心のどこかに留めておいてほしい。いつか、考察に使うかもしれないから。




 これは善意だ。そして、善意ほど恐ろしいモノはない。

 善意は人間のものだ。そして、人間とは恐ろしいものだ。人間とは醜いわけでもないし、美しく無垢なものでもない。道徳も、神も、祈りも、呪いも、法もなくとも、人は人として生きて、人として死んでいく。

 それは、なにより尊い人らしさだと、思う。

 だからこそ、それを捨てる事は本当に正しいか?好きに生き、理不尽に死ぬ。その権利は、本当に捨てていいのか?心に問うと、それもまた一興だと思えるのだ。

 死は万人に固有な可能性だ。受け入れなくともやってくるし、待ってくれない。必ず終端に死がある。そして、終端は決まっていても、私達の死に至る道は決まっていないのだ。

 どうせ死ぬのだ。それを受け容れ、なおも腐らず、死ぬまで生きようじゃあないかね。価値のないガラクタのような私にも、輝く物があるのかもしれないさ。泥に咲いた蓮の花も、光から逃げるように溺れるのなら、私だって糸を探す哀れなカンダタであってもいいじゃないか。

 ハッピーエンドだって人の物差しで基準は変わる。なら、私のトゥルーエンドは私の物差しで決めさせてくれ。そのオチが新宿エンドでも構うものか。それが選択だ。それが先駆だ。それが答えだ。

 自暴自棄?そんなちっぽけな感情じゃない。心の隅のアクセルを少し踏み込んだだけ。そんな心境だ。

雑記・神話と僕ら

 何も書いてないと思われるのもアレだし、ちょっとした思考のスパイスを投下したいと思う。

 まあ、この言葉は妄言とはしないが、乱雑に書き散らした草稿から使えそうな物を引き抜いて構成を変えただけだ。面白おかしく解釈して、読み飛ばしてもらえば当時の私も喜ぶだろうさ。では。







《仮装する秘密》
 当たり前だが、秘密とは隠されるから秘密だ。「公然の秘密」って言葉はあるが、あれだって隠される必要がある、しかし暴かなければ問題がないから誰もが知っていても言わない事象に使う。
 
 要するに、秘密とは建前なのだ。そして、建前はより大事な物を守り隠すために使われる。「自分の心への負荷<秘密を明かす負荷」が成り立つのであれば、それはその人にとって隠す価値のある秘密ってことだ。

 さて、個人個人がそうした秘密を持つわけだが、昔はある秘密を集団で保持し、伝えていた。それは……神話だ。





 例えば、偶然にも枯れた地に水が湧き出たとする。今なら、それは地下水が……とか、何らかの合理的な説明をつけるだろう。しかし、その説明を付けられない古代には、「水神の恵み」などといったように超常の存在にその理由を仮託する。

 これに限らず、神話とは「理由の分からないこと、非人為のこと」を説明するために付加された物語……「真実であることを求められた」劇場なのだ。

 勿論、現代の観点から見れば水神の恵みなどでない事は明らかだ。それでも、当時の人々にとっては「水神の恵み」で説明がつくのならばそれが真実となる。真実とは合理的で正しいかではなく、大衆が認めれば真実なのだ。

 だからこそ、「全てに科学的で合理的な理由があること」を真実とする現代では、神話は求められない。むしろ排斥された。今や、民間で細々と怪談やミステリー、超常現象として残る程度だ。
(だとすれば、誰もが嘘を語り、物語をでっち上げられるインターネットこそ、現代の神話の温床なのかもしれないが。)

 神は、"実在しないから存在する"。詭弁と思うかもしれないが、「ここにいない」から「どこかにある」のが超常の存在なのだ。神を普遍の理屈に置き換えてしまえば、それは神の行いではない、単なる法則になってしまう。

 故に心ではなく理性で物事を捉え、万事に法則を求めて特別さを求めない現代の知性は、神話という独立、特異であることを基礎とするモノとは背反の思想になる。

 これからの未来、神話を代表とする超常の存在はどこへ向かうのか。世の中に完璧な存在が無いとするなら、全ての超常現象を説明しきれないのかもしれない。だがもし、世界の全てを知性で割り切れるのであれば……それはとても、退屈な世界なのかもしれない。

 なにせ、それは世界に疑問を抱く余地が無いってことだ。不思議も、疑問もなく、全てが合理的に説明できてしまうのなら、好奇心なんて持ちようがないじゃないか。

いまさら「遙」考察シリーズ・第三回「うつろわざるもの」

〈まえがき〉 
 ……「うつろわざるもの」は、遙という「流れていく悠久の時」を締めくくる曲だ。「改」で再編曲された時、特設サイトにはこの様に書かれている。

 ―彼女が最後に辿り着いた、"真の結論"

 彼女とは、遙のブックレットに描かれている天子のことだろう。では、"真の結論"とは何なのか。そして、「遙」とはどんな意図があっての作品なのか。それについての僕の考察を書いていこう。

〈「私と彼方」〉
 この曲は天子の独白のような形で進行していくのだが、冒頭に、「かつて、純真に碧かったのは 私と彼方、どちらだったのだろうか」とある。

では、私と「彼方(あなた)」とは何なのだろうか。

「彼方(あなた)」というフレーズはあと2回出てくる。即ち、「この場所ならば、彼方の事がわかる気がした。」と「この身を委ねよう、彼方とともにあるならそれでいい。」の部分だ。

で、ただ単に「あなた」ならば対象は人なのだが、「彼方」というのは距離を示す単語だ。それに"あなた"という読みを振っている。という事は、遙かな距離の先にある「なにか」を擬人化した表現……そう考えるのが自然だろう。

とすると、その「なにか」とは何なのか?

僕は、その答えは冒頭にあげた歌詞の次の行にあると考えている。

〈「幻想郷」と、「この幻想郷」〉
 「解答を返さない幻想郷の 果てを見たかった」

「幻想郷(このせかい)」と読む。そして、この曲での幻想郷は2通りの読みが振られていて、もう一つは……

 「この幻想郷だけは。 変わらずに在り続けるだろうと信じている。」

こちらの幻想郷は、「幻想郷(せかい)」と読むのだ。そう、「この」が外に出されている。これが何を意味するか……

まず、冒頭の「幻想郷(このせかい)」とはブックレットの天子がいる幻想郷で間違いないだろう。「遙」という一つのアルバムの中で描かれた幻想郷。

そして、二度目の「この幻想郷(せかい)」だが。「幻想郷(このせかい)」とは別の幻想郷、しかも「変わらずに在り続ける」幻想郷……つまるところは、一次創作である「東方Project」ということなのだろう。

更に言えば、タイトルであり歌詞の中にも頻出する「うつろわざるもの」もそうなのだ……と結論付けたいのだが、流石に短絡に過ぎるかと思われる。なので、次の章ではそれについて書いていこう。


〈「うつろわざるもの」〉
 「うつろわずにはいられないのだ。 全てが、変わりゆく。」

今までの「遙」考察の記事にも書いてきたが、「遙」は「悠久の時が過ぎることで、変わりゆく幻想郷の姿」を表していると思われる。そして、この歌詞はそれを簡潔に体現している……そう言っても過言ではないだろう。

更に、その変わりゆく過程を要約した部分もある。

「為しえる事がもう、それ以上ないなら、きっとそれは完結なのではないか?」から続く歌詞だ。

「星はきっとまた昇るだろう。
罪の意識も薄らぐだろう。

抗えぬ想いに押し潰されてしまう。
醜い現実に眼をつぶってさえしまう。

時は残酷なまでに流れて。
そして全て荒廃させる。」

上から、「ささぐうた」、「Cruel CRuEL」、「NeGa/PoSi」、「盲目の笑顔」、Tr.7-9、「devastator」の事だと考えて間違いないだろう。そう、「時は〜〜全て荒廃させる」。変わらないものなど、無い……少なくとも、「幻想郷(このせかい)」には。

そして、最後に残った天子はこう言っている。

「遙かな 変わらぬものに 惹かれる自分がここにいた ああ、いつか変わり果てるこの身だとしても。」

「変わらぬもの」に惹かれる。では、変わらぬものとはなんなのだろうか。

「遙かな 変わらぬものを うつろわざるものを抱いて 全てを 受けいれながら、私は此処に居る。」

そう、歌詞にもある「うつろわざるもの」だ。



 では、「うつろわざるもの」とはなんだろうか。

それは全てのキャラクターも、世界すらも変わりゆくのに、それでも変わらないものだ。

さらに、こうも書かれている。

「最後に遺った、変わらない全ての根源こそが。 この眼の前に、美しくも残酷に。」

「変わらない全ての根源」。それはつまり、全てのキャラクター、全ての世界の根源……やはり、「一次創作」の事なのだろう。

どれだけ遙の……いや、二次創作のキャラクターが、幻想郷が残酷な運命を辿ろうとも、それが一次創作に干渉することはない。「変わらずに在り続ける」。

つまるところ、「うつろわざるもの」も同じなのだ。一次創作の幻想郷という「変わらない全ての根源」であり、二次創作から見れば、同じはずなのに「彼方」にあって届かないもの。

そして、「うつろわざるもの」を知った天子の True Conclusion……「真の結論」は。


〈True Conclusion〉
 「遙かな 見上げる天空に 私であったものを捧ぐ 唯一つ うつろわざるものへと向けて。」

サビで一回、そして曲のラストでもう一回出てくるフレーズだ。

「私であったものを捧ぐ」とあるが、一回目で捧げているのはブックレットにあるように、帽子なのだろう。天子を天子というキャラクターたらしめている、いわばシンボルの一つ。それを天へと投げ上げている。

私達が天子を天子だと認識できているのは、帽子、服装、或いは所持品などの外見的特徴があるからだ。逆に言えば、それすらも変わってしまえば認識できない。

私であったものを天空に……「うつろわざるもの」に捧ぐ。それはつまり、一次創作に手が届かないことを受けいれる事……なのだと思う。こればかりは、明示された事柄ではないからはっきりとは言えないが。

そして、最後にもう一度、章冒頭のフレーズが出てくる。では、そこで天子が捧げたのは何なのだろうか。

「遙」では、どのキャラにも結末が用意されている。死、或いはそれに近しい形で。であれば、天子の結末……いや結論は、「遙」という物語そのものを天に……一次創作に捧げるということで。

身を投げたのではないだろうか。天に向けて。届かないけれでも、僅かでも近付くために。

どんな二次創作も、根底にあるのは一次創作に近付こうという想いだと僕は思っている。天に「遙」という物語を捧げる、そういう事なんじゃないだろうか。

これが「遙」の結論。めでたしめでたし。







でも、まだこれで終わりじゃないんだな。


〈「ささぐうた」〉
 CDというのは、最後の曲が終われば最初の曲に戻ってくる。「遙」の中の物語は終わりを告げても、「遙」というCDは終わらない。そう、「永久に続く螺旋」になっているんだ。

そして、戻ってきた最初の曲は「ささぐうた-ヒガン・ルトゥール・シンフォニー-」。「遙」の中で、この曲だけは死が結末なのではなく、その先にある輪廻を歌っているのだ。

「全てを有に繋ぐ」。第一回の時に、魔理沙についての曲だと言ったが、「遙」を全て聴き終わってから聴くと、もう一つの意味があると思わないだろうか。

全てが終わった上で、変わらない天を見たあとでそれでも、この曲は「いつの日か 翔けろよ、天を」と歌っているのだ。

まさに、一次創作に近付こうとする、「遙」に抗うという意志ではないだろうか?

ここまでを踏まえて、「遙」はCDという円環を利用した無限ループだと、僕は思う。何度も何度も滅び、生まれ変わり、また滅び……そこから抜け出すことは、いつかあるのだろうか。



〈あとがき〉
 1996年に靈異伝が出た時から数えれば24年、2002年の紅魔郷からなら18年、「遙」が出たC80は2011年のイベントだから、もう9年になる。

靈異伝から数えれば四半世紀近く、紅魔郷から数えても、僕が幼児の時から「東方Project」というコンテンツが世にあった事になるのだ。

恐ろしく息が長いし、ここまで二次創作・イベントが巨大化したコンテンツは中々無いのではないだろうか。

そして、その二次創作が増えていく中で「遙」が生まれた。紅魔郷から数えて9年後の事で、僕はその頃の様子をよく知っているわけではないが、博麗神社例大祭のスペース数は2004年に100ほどだったのが2010に4050、そして2011に4780とあるから、二次創作は相当な隆盛だったのだろう。

その隆盛の時に、予言の様に「遙」が作られたのだ。繁栄の時にこそ滅びの兆候が…というわけではないが、そのタイミングでこんな作品を出したRDさんが恐ろしくなる。

「東方はオワコン」とは何度も聞いた話だが、未だにその裾野は広いし、今後もまだしばらくの間は大丈夫だろう……と思っていた時にこのコロナ(COVID-19)騒ぎで、2020の博麗神社例大祭は中止になった。これが衰退の切っ掛けにならないように祈りつつ、「遙」に抗おうという気持ちを新たにするため、この記事を書いた。


少しでも、読んだ人のうちの誰かの心に残れば幸いだ。

「蒐」感想 〜 その手に全てを!!

 あれもこれも書こうとすると、考察記事を書くときの壁になるような気がする。よって、今回も感想は大幅に内容を絞って書くことにした。

 ジャケット右下に指、左側、右上にはCDケースらしき枠線。この時点で怪しさが露骨だったが、開いてみると案の定だった。「蒐」そのものを持つ魔理沙の姿が浮び上がる……実に巧妙な仕掛けで、こうやってEPにも手を抜かないところが実に凋叶棕らしい。

 しかし、ジャケに描かれているのは、今までのアルバムを象徴する各アイテムを集めた魔理沙。これは「蒐」を魔理沙が所持している、という文字通りの意味か……それとも……。これ以上は考察記事に取っておこうか。

 そして、珍しくCDのレーベル文が存在しなかった。レーベル文はそのアルバムのあらすじが書いてある事が多いし、盤の性質上無くても不思議ではないのだが……私にとっては一番重要と言ってもいい考察のソースなのだ。(´・ω・`)

 肝心の曲!いやぁ、今回の盤も良インスト、謝罪案件とネタがてんこもりだった。だが、敢えて一曲に絞って感想を書こう……というか、夜聞聞が全くわからないという実情もあるのだが。凋叶棕有識者の方、夜聞考察の記事を是非書いてほしいのです…

 で、一曲絞って書くのはもちろんラストトラック、コレクターズ・ハイだ。

凋叶棕の魔理沙には大きく分けて2つの属性がある、と思っている。

 一つは、げんきになったときのうたのように精神的な弱さを露呈したりする、脆い魔理沙、或いはKrisame Eversionのように、嫉妬心と欲から、手段を選ばない黒魔女的な魔理沙

 そしてもう一つは、無題や「スター」シリーズに代表されるような主人公属性、前向きでまっすぐで明るい魔理沙

この曲がどっちの属性に該当するかと言われたら、おそらくは後者に入れる事になるだろう。しかし、前者にも当てはまる所が無いとは言えない。中々、判定が微妙だ。

だけど、そんな属性はそっちのけで、僕にはコレクターズ・ハイの魔理沙がとても魅力的に映る。

「蒐め蒐め蒐め蒐め蒐めて その目的ただただくらく〜〜」のくだりは秘蔵空論の一節、生生生生暗生始のもじりだと思われるが、なるほど彼女の目的は「集めること」で、それ以上ではないのだ。

珍しい物、隠されたお宝、秘密、なんでも蒐集したい。コレクションしたい。その価値、意味ではなく、ただ「欲しいからいただいていく」……その欲望は底なし。それでいて、自分の人生には妙に達観している。

実に、人間くさい。そして、そこが「霧雨魔理沙」の魅力なのだ。何度でも挑戦する。何度も立ち上がる。諦めない。「夢をまた一つその手にして、夢をまた一つ叶えていく」。

それを体現している、欲はあっても何故か憎めない……例えば、アルセーヌ・ルパンのような。コレクターズ・ハイの魔理沙は快盗だった。思わず憧れてしまうくらいに。

僕は、そういう人間らしい人間が堪らなく好きなのだ。


……ふむ、大分駄文になってしまったが、あとはいずれ書くだろう考察記事に託す事にして、今回はここでペンを置いておこう。

次の更新では、遙考察の一応の終着「うつろわざるもの」の記事をお届けしたいと思っている。まあ、気長に待って貰えれば幸いだ。

掲示板にピン留め。

 鮮明なイメージほど、長く残るようにこの身体はできているらしい。忘れたはずなのに、するするとそれは忍び寄る。影か、這う虫か、意識の外側に紐付けられ、長い長い道を引きずられ、磨り減ることはあっても無くなることはない。

 迷いや、後悔や、傷の古井戸。時に過ちの砂漠に点在する成功のオアシス。記憶とは呪わしいものであり、根拠なき自信の源泉ともなりうる。

憧れや焦がれがくすぶる。なれない、交わらない未来って名前の虚像。秋風に散りばめられた紅、黄金と同様、瞬間は切り抜けても明確にならない、ピンぼけした未来予想図。それに近付けても、それそのものになれやしない…いやそもそも、「それ」がなんなのかすらも定かではなく。

通勤の雑踏で息を殺し、遊歩道で鼻につくゲロの臭いを振り払い、河川敷で気を吐く。それで何が変わるわけでも、いや何を目指すかすら曖昧なくせに、ピンぼけした画像を取り直すシャッターチャンスを待っているわけだ。

望まなかった自由を与えられ、羽をむしられた小鳥が空を眺めてさえずる。

あなたは何を求めるのか。

「徒」考察 -ぼくらは夢(幻想)の「旅人達」-

[ロストドリーム・ジェネレーションズについて]

「Does that one small step for man
really become a giant leap for mankind ?」

 ロストドリーム・ジェネレーションズの冒頭にあるこのフレーズは、これを読むような物好きなら分かると思うけど

「That's one small step for a man, one giant leap for mankind.」
っていうアポロ11号の船長ニール・アームストロングの名言が元ネタですね。


 で、最初に触れられている「旅人」とは彼のことでほぼ間違いないでしょう。小さな一歩にして、大いなる飛躍を成し遂げた人。

しかし、ぼくら---月に、夜に輝くそれに幻想を抱く人々---にとって、彼の一歩は「月がただの岩塊である」という現実を突きつける行為でした。

この月とは、届いてしまった「夢」のメタファーです。

彼が託した「夢の続き」は、宇宙へのさらなる旅、もっと言えば人の持つ技術の発展、神秘の解明。しかし、それはぼくらにとって、幻想を崩す物で。大切に抱いている、沢山の「未知」という神秘が無くなっていく、消えていく行為なんですね。

たとえそれに背を向けたとしても、いずれは「未知」を他の人が暴いてしまう。自分の中で、その「未知」を守り続けても、現実は容赦なく「事実」を突きつける。彼の「偉大なる証」が、かつてぼくらの夢を打ち崩したように。

※2020 4/27追記…

永夜抄のmusic room、ヴォヤージュ1969にこんなコメントが付いていました。

「6面のテーマです。
二十世紀の旅人。
二十世紀のノアの箱舟は、期待と不安を乗せて宙を飛んだ。
だが、期待だけを月に置き忘れてきてしまったのだろうか。
未来と言われていた二十一世紀には、不安とほんの少しの幻想だけ
しか残されていなかった。」

はい、まさにこれがそのまま引っ張られて来てますね。こんな基礎情報も忘れて考察やってたのか、私は……

[「夢」から「幻想」へ]

 端的に言えば、これはエクスデウスへの一里塚でしょう。世界の果て、と言い換えても良いかもしれません。この先に待つのは全ての「未知」を暴き尽くした結論だけ。そうなってしまう。

だからこそ、ぼくらは夢を探す。初めから、生まれたときから持っていなかった夢を。

探して、探して、探した結果、ぼくらは夢を……いや「幻想」を見つけたんですよ。これを読んでいるあなたも、そうでしょう?出会いは…始まりは偶然で、過程は違ったとしても、「東方project」っていう「幻想」に、探していた「夢」を当て嵌めて。

……幻想との触れ合いは、あなたにとって特別だったでしょう?夢を「幻想」に託す。幻想少女に託すのは。


 しかし、そうして得た「幻想」でさえも、いつか暴かずにはいられない。「手を伸ばす」ことがぼくら「旅人達」なら、手を伸ばし、届いてしまった時、現実を知ってしまうから。

知ってはまた歩き、その現実を振りほどく……その繰り返し。


 ロストドリーム・ジェネレーションズは、「結論」です。伸ばした手が届く場所は決まってしまっている。だけど、その手がどう伸びていくかには、まだ余地が残されているんですよ。

あるでしょう?同じように「手を伸ばし」ている盤が。


[花咲く幻想郷〜Insert Coin(s)]

 「奉」のブックレット、その最後のページ、Insert Coin(s)の所にはコインを持った「手」がありますよね。つまり「扌」と「奉」で「捧」となるっていうことなんですけど。

でも、その手に持っているコインは「奉」の円盤と同じ仕様で「扌」の代わりに蓮の花があしらわれています。蓮、といえばLotus。幻想郷といえばLotus Land。「奉」という幻想郷へのコインは、ぼくらの「手」で捧げ、再生する事で曲への……さらには一次創作「東方project」への原点回帰となるんです。

「徒」の時に細く、頼りなかった手が、「奉」になってはっきりした物になっているでしょう?コインという「夢」を「幻想」に換えて、心に「幻想」を抱いて、ぼくらはまた、飛んでいく。


[ここからの布石]

 「徒」の中には「手を伸ばす」という描写が多々あります。それは博麗の巫女に伸ばす手、未だ持たぬ力へと伸ばす手……

手を伸ばすのは欲望の象徴であり、また、ロストドリーム・ジェネレーションズのように救済を求める意志もあり……そんなところでしょうか。

ああ、そういえば「手を伸ばすものか。」と言う人もいましたね。凋叶棕で描かれる中で最も「自由」な、普通の魔法使いが。

生き方を選択するのは自由ですし、その道を貫き通すのもまた自由なら、彼女のような生き方もあるでしょう。そしてまた、それに惹かれる者がいることも。


 ひとまず、こんなところでしょうかね。「遙」を完結させた後で、「徒」の持つ意味について触れて行く時にこの続きを書こうと思っています。

 まずはやり残した「うつろわざるもの」の考察を完成させるので、それまで気長に待って貰えたらなぁと思います。

ではでは。