朽葉考集録

めめとちゃんの雑記帳です

学びっていう果実は、甘い。

 勉強ってのは古今東西の少なくない人々が好き嫌いに関わらずやってきた物だし、皆が経験してきた、あるいはしているものだろう。そして、僕も分野によって好き嫌いは分かれるにせよ、さほど好んでやる方ではない。

でも、学ぶっていう行為はなんでか知らないけど、大好きなんだ。そこで、今日は「学ぶ」ことについて考えていこうと思う。


 僕にとって学ぶっていうのは、自分から、主体的に、新しい知識を吸収していくことだ。ふと見つけた、気になった花の名前を探すのも、料理のレパートリーを増やすのも、歴史上の事件、それにまつわるエピソードを調べるのも、それが自発的に知識を求める行為だったら、学びなんだと僕は思っている。
 

 それは人が生きていく中で、ずっと続けていくものだ。以前に「神話の話」で書いたと思うけど、人は未知を求めて、暴いて手中にしたがる生き物なんだな。「神話の話」ではそのデメリットとして "未知に未知という可能性が欲しい人" がいる、みたいな事を書いたが、逆にメリットになるのがこの場合なんだろう。

新しい知識を求めて、自分の知らないものを、ことを、貪欲に自分の物にしていく。それが人間の可能性で、そうやって未知を喰らって前に進んでいくから、人間は進化して来たんだろう。

逆に考えれば、知識を吸収するのを止めたときに人は死ぬんだろうな。主体的な学びっていうのは、いわば足を前に出すようなものだ。自分で足を進めることができなくなれば、いずれはそこで止まったまま死んでしまう。他の人にはどんどん追い越されていくのに。


 だから、僕は「生徒達の自由な個性を育てる」なんて名目で教科を選択させるのは反対なんだ。昔は全部教えていた、倫理、地理、政経、物理に地学、化学。どれを学ぶか生徒達に取捨選択させているのは、むしろ進学するための「勉強」のために、人間にとって大切なはずの「学び」の機会を削いでしまっているんじゃないだろうか?

もしかすると、面白い先生に出会って新鮮な知識を吸収できたかもしれない、そんな機会も「勉強」のための選択一つで全部フイにしたのかもしれない、ついそう思ってしまう。

 どこで聞いた話かもすっかり忘れてしまったが、こんな話がある。かつての中東かどこかの授業では、初めて学校で学ぶ子供に、文字を書かせる石板に乗せた蜜を舐めさせたという。この話が、僕はたまらなく好きなんだ。「知」とは甘美な物だ、って事をこんなに詩的な方法で子供に知らせるとは、と最初に聞いた時に感動した。

要するに、知というのは最初に与えられて、学ぶ人はそれを与えられるだけでは満足できなくなり、自分からその甘さを求めだす。学びはその甘さを知る方法でも、味わう方法でもある。

だから、僕は学ぶ事が大好きだ。知らないなにかを知るのが楽しみで仕方ないし、その感覚を失いたくない。砂糖中毒なんだ。コーヒーはブラックが好きなのにな。