朽葉考集録

めめとちゃんの雑記帳です

「何処より来たりて何処へ行く」

 人間ってのは、今日を生きるために生きてるのか、明日死ぬために今日を死んでいっているのかも分からずに生きている。

 難儀な生き物だよなぁ。なまじ自我を持ってしまっているから生きることにも苦しむし、時には心を病んだり、自殺だってしてしまう。

 その一方で、そんな他人の生の輝きに僕らは魅せられて、だからこそ「感動のノンフィクション」や「泣ける小説」なんて物も産まれるんだろう。それは、人が抱く幻想としちゃ十分なものだし、現実にもありうる、謂わば手の届く距離にある理想だ。

 理想っていうのは、手の届く目標。夢ってのは、手が届かないから夢。僕は理想主義でもないし、ただ前を見て情報を発信し続け、受信した物を自分なりに構成しているだけの人間だから、こういう大口を叩くと後で痛い目に遭いそうだが、そうでもしないと自分で行動するやる気が出ない。怠惰なのだ、僕は。

 
 「我が生、何処より来たる 去って、何処に行く」とは良寛の言葉だっただろうか?俗世を去って草庵にこもり、往生を求める人の心に僕がそこまで近付けるとは思わないが、今日は少しこれについて考えて行きたいと思う。

 何をする為に生まれてきたか、が決まっているなんて僕は思いたくない。「天命」なんて言葉があるが、あんなのは自分ではできなかった決断を神に責任転嫁しているだけだろう?結局の所、自分の生き方を決めるのは自分自身だ。

 それは「答え」と言っても過言じゃないだろう。僕にはまだ分からないけど、出逢うべくして出逢うではなく、いつの日か出逢う人に理由を貰う、或いは自分で理由を見つけて、それに殉じられるなら、それが幸せなのだろう。

 としたら、「朝に道を聞かば夕べに死すとも可なり」と言うのは、案外的を射ている言葉なのかもしれないね。こう思うと、正しい答えを見つけられるなら、それに殉じられるなら、それこそが一番正しいんだと信じられるなら。

 死んだらどうなるか、なんて僕には考えられない。考えられなくなるのが「死」なのだから、何度もここで言及しているように、何も考えられない情態はイコールで「死」なのだろう。「いつか死んだらって、思うだけで胸が空っぽになるんだ」なんて。

 でも、死ぬときくらいは胸を張って、悔いなく死にたいじゃないか。既に悔いばっかりなのに悔いなく、なんて厄介な心を持ち合わせてしまっているけれど、それでも死に接して笑えるのなら、それに勝る幸福なんてない。

 死んだら終わりだよ。だから、僕は「Mement Mori」を掲げてるんだから。結局、今何ができるか、どこまで「僕らしく」生きられるかが、僕の至上命題なんだな。