朽葉考集録

めめとちゃんの雑記帳です

引用についての覚書

 自称とはいえ僕も物書きの端くれだから、言葉には力があるって信じている。

「言葉はチェインソー、それともrainbow、それともfriend」ってSHU-THEが言ってたように、人を傷付け、あるいは寄り添い…と人に影響を与えやすいのは言葉だろう。

それが口から発されたか、文字に起こされたものかに関わらず。


 とは言うものの、口頭と文字ではやはり与える印象は異なる。その点、歌というのは大変贅沢に「言葉の力」を感じられる物だろう。

なにせ、歌声と歌詞カードを通じて口頭と文字、双方のイメージを受け取ることができるのだから。数分間に濃縮された感情の奔流と、数百字に推敲された物語の筋書きを同時に受け取る、こんな体験は歌以外では中々できないでしょう?


 さて、そんな「言葉の力」を活かした物を書くにも様々な手法があるけど、その中でも書き手・読み手双方の知識を試されるのが「引用」だと僕は考えている。

というわけで、今日の記事のテーマは「引用」だ。


 引用で書き手が試されるのは、自分の文脈の中に無理なく他人のテクストを展開できるかという点だ。

組み立てた文章を誤った解釈に基づいた引用でぶち壊しにしてしまったら本末転倒だが、その引用文を活かして自分の論を展開できるなら、それは書き手の知性と応用力の証左と言えるだろう。

反対に読み手側に試されるのは、書き手が意図した通りに文意を汲み取れるか、だ。

評論なら引用した狙いも明記されているだろうが、詩歌になるとそうもいかない。引用元の意味と本文の文脈をしっかり吟味する必要がある。


 ここで、引用の一例として凋叶棕の「薦」から、「落日ロマンス」を取り上げよう。この曲の冒頭に、このような歌詞がある。


   「遊びをせんとや生まれけむ 
    戯れせんとや生まれけん 
    遊ぶ子供の声きけば 
    わが身さえこそゆるがるれ」

この部分、平安時代後白河法皇が編集した歌謡集、「梁塵秘抄」に収められている今様の中の1首をほとんどそのまま引用しているのだが、おおよその意味を取ると、「遊んでいる子供達の様子を見ると、ついつい自分の体も動いてしまう」、といった内容だ。


 では、なぜこれが引用されているのかを考えてみると、「落日ロマンス」の元ネタの同人誌では、遊女となった魔理沙が、遊郭の外での命名決闘を見ているというシーンがある。

「遊び」を弾幕ごっこ、「我が身」を魔理沙だと考えれば、場面に即した引用と取れるのではないだろうか。

同時に、本来楽しげであった内容が悲哀すら感じる情景描写に置き換わっている、という所も面白く、実に巧妙な引用だ(どこ目線だよ)。


 とまあ、例に挙げてみたように引用は知識の引出しを試される、ある種高度な言語遊戯とも言える側面も持ち合わせている。引用元を知ることで知識を深め、引用することを楽しむ一助にこの記事がなればいいなぁ、と思って今日はペンを置くことにしよう。