朽葉考集録

めめとちゃんの雑記帳です

いまさら「遙」考察シリーズ・第三回「うつろわざるもの」

〈まえがき〉 
 ……「うつろわざるもの」は、遙という「流れていく悠久の時」を締めくくる曲だ。「改」で再編曲された時、特設サイトにはこの様に書かれている。

 ―彼女が最後に辿り着いた、"真の結論"

 彼女とは、遙のブックレットに描かれている天子のことだろう。では、"真の結論"とは何なのか。そして、「遙」とはどんな意図があっての作品なのか。それについての僕の考察を書いていこう。

〈「私と彼方」〉
 この曲は天子の独白のような形で進行していくのだが、冒頭に、「かつて、純真に碧かったのは 私と彼方、どちらだったのだろうか」とある。

では、私と「彼方(あなた)」とは何なのだろうか。

「彼方(あなた)」というフレーズはあと2回出てくる。即ち、「この場所ならば、彼方の事がわかる気がした。」と「この身を委ねよう、彼方とともにあるならそれでいい。」の部分だ。

で、ただ単に「あなた」ならば対象は人なのだが、「彼方」というのは距離を示す単語だ。それに"あなた"という読みを振っている。という事は、遙かな距離の先にある「なにか」を擬人化した表現……そう考えるのが自然だろう。

とすると、その「なにか」とは何なのか?

僕は、その答えは冒頭にあげた歌詞の次の行にあると考えている。

〈「幻想郷」と、「この幻想郷」〉
 「解答を返さない幻想郷の 果てを見たかった」

「幻想郷(このせかい)」と読む。そして、この曲での幻想郷は2通りの読みが振られていて、もう一つは……

 「この幻想郷だけは。 変わらずに在り続けるだろうと信じている。」

こちらの幻想郷は、「幻想郷(せかい)」と読むのだ。そう、「この」が外に出されている。これが何を意味するか……

まず、冒頭の「幻想郷(このせかい)」とはブックレットの天子がいる幻想郷で間違いないだろう。「遙」という一つのアルバムの中で描かれた幻想郷。

そして、二度目の「この幻想郷(せかい)」だが。「幻想郷(このせかい)」とは別の幻想郷、しかも「変わらずに在り続ける」幻想郷……つまるところは、一次創作である「東方Project」ということなのだろう。

更に言えば、タイトルであり歌詞の中にも頻出する「うつろわざるもの」もそうなのだ……と結論付けたいのだが、流石に短絡に過ぎるかと思われる。なので、次の章ではそれについて書いていこう。


〈「うつろわざるもの」〉
 「うつろわずにはいられないのだ。 全てが、変わりゆく。」

今までの「遙」考察の記事にも書いてきたが、「遙」は「悠久の時が過ぎることで、変わりゆく幻想郷の姿」を表していると思われる。そして、この歌詞はそれを簡潔に体現している……そう言っても過言ではないだろう。

更に、その変わりゆく過程を要約した部分もある。

「為しえる事がもう、それ以上ないなら、きっとそれは完結なのではないか?」から続く歌詞だ。

「星はきっとまた昇るだろう。
罪の意識も薄らぐだろう。

抗えぬ想いに押し潰されてしまう。
醜い現実に眼をつぶってさえしまう。

時は残酷なまでに流れて。
そして全て荒廃させる。」

上から、「ささぐうた」、「Cruel CRuEL」、「NeGa/PoSi」、「盲目の笑顔」、Tr.7-9、「devastator」の事だと考えて間違いないだろう。そう、「時は〜〜全て荒廃させる」。変わらないものなど、無い……少なくとも、「幻想郷(このせかい)」には。

そして、最後に残った天子はこう言っている。

「遙かな 変わらぬものに 惹かれる自分がここにいた ああ、いつか変わり果てるこの身だとしても。」

「変わらぬもの」に惹かれる。では、変わらぬものとはなんなのだろうか。

「遙かな 変わらぬものを うつろわざるものを抱いて 全てを 受けいれながら、私は此処に居る。」

そう、歌詞にもある「うつろわざるもの」だ。



 では、「うつろわざるもの」とはなんだろうか。

それは全てのキャラクターも、世界すらも変わりゆくのに、それでも変わらないものだ。

さらに、こうも書かれている。

「最後に遺った、変わらない全ての根源こそが。 この眼の前に、美しくも残酷に。」

「変わらない全ての根源」。それはつまり、全てのキャラクター、全ての世界の根源……やはり、「一次創作」の事なのだろう。

どれだけ遙の……いや、二次創作のキャラクターが、幻想郷が残酷な運命を辿ろうとも、それが一次創作に干渉することはない。「変わらずに在り続ける」。

つまるところ、「うつろわざるもの」も同じなのだ。一次創作の幻想郷という「変わらない全ての根源」であり、二次創作から見れば、同じはずなのに「彼方」にあって届かないもの。

そして、「うつろわざるもの」を知った天子の True Conclusion……「真の結論」は。


〈True Conclusion〉
 「遙かな 見上げる天空に 私であったものを捧ぐ 唯一つ うつろわざるものへと向けて。」

サビで一回、そして曲のラストでもう一回出てくるフレーズだ。

「私であったものを捧ぐ」とあるが、一回目で捧げているのはブックレットにあるように、帽子なのだろう。天子を天子というキャラクターたらしめている、いわばシンボルの一つ。それを天へと投げ上げている。

私達が天子を天子だと認識できているのは、帽子、服装、或いは所持品などの外見的特徴があるからだ。逆に言えば、それすらも変わってしまえば認識できない。

私であったものを天空に……「うつろわざるもの」に捧ぐ。それはつまり、一次創作に手が届かないことを受けいれる事……なのだと思う。こればかりは、明示された事柄ではないからはっきりとは言えないが。

そして、最後にもう一度、章冒頭のフレーズが出てくる。では、そこで天子が捧げたのは何なのだろうか。

「遙」では、どのキャラにも結末が用意されている。死、或いはそれに近しい形で。であれば、天子の結末……いや結論は、「遙」という物語そのものを天に……一次創作に捧げるということで。

身を投げたのではないだろうか。天に向けて。届かないけれでも、僅かでも近付くために。

どんな二次創作も、根底にあるのは一次創作に近付こうという想いだと僕は思っている。天に「遙」という物語を捧げる、そういう事なんじゃないだろうか。

これが「遙」の結論。めでたしめでたし。







でも、まだこれで終わりじゃないんだな。


〈「ささぐうた」〉
 CDというのは、最後の曲が終われば最初の曲に戻ってくる。「遙」の中の物語は終わりを告げても、「遙」というCDは終わらない。そう、「永久に続く螺旋」になっているんだ。

そして、戻ってきた最初の曲は「ささぐうた-ヒガン・ルトゥール・シンフォニー-」。「遙」の中で、この曲だけは死が結末なのではなく、その先にある輪廻を歌っているのだ。

「全てを有に繋ぐ」。第一回の時に、魔理沙についての曲だと言ったが、「遙」を全て聴き終わってから聴くと、もう一つの意味があると思わないだろうか。

全てが終わった上で、変わらない天を見たあとでそれでも、この曲は「いつの日か 翔けろよ、天を」と歌っているのだ。

まさに、一次創作に近付こうとする、「遙」に抗うという意志ではないだろうか?

ここまでを踏まえて、「遙」はCDという円環を利用した無限ループだと、僕は思う。何度も何度も滅び、生まれ変わり、また滅び……そこから抜け出すことは、いつかあるのだろうか。



〈あとがき〉
 1996年に靈異伝が出た時から数えれば24年、2002年の紅魔郷からなら18年、「遙」が出たC80は2011年のイベントだから、もう9年になる。

靈異伝から数えれば四半世紀近く、紅魔郷から数えても、僕が幼児の時から「東方Project」というコンテンツが世にあった事になるのだ。

恐ろしく息が長いし、ここまで二次創作・イベントが巨大化したコンテンツは中々無いのではないだろうか。

そして、その二次創作が増えていく中で「遙」が生まれた。紅魔郷から数えて9年後の事で、僕はその頃の様子をよく知っているわけではないが、博麗神社例大祭のスペース数は2004年に100ほどだったのが2010に4050、そして2011に4780とあるから、二次創作は相当な隆盛だったのだろう。

その隆盛の時に、予言の様に「遙」が作られたのだ。繁栄の時にこそ滅びの兆候が…というわけではないが、そのタイミングでこんな作品を出したRDさんが恐ろしくなる。

「東方はオワコン」とは何度も聞いた話だが、未だにその裾野は広いし、今後もまだしばらくの間は大丈夫だろう……と思っていた時にこのコロナ(COVID-19)騒ぎで、2020の博麗神社例大祭は中止になった。これが衰退の切っ掛けにならないように祈りつつ、「遙」に抗おうという気持ちを新たにするため、この記事を書いた。


少しでも、読んだ人のうちの誰かの心に残れば幸いだ。