朽葉考集録

めめとちゃんの雑記帳です

雑記・その3くらい

 鬱蒼とした山林を眼下に、雲を飛び越した。現在私は鋼鉄の鳥籠の虜囚、というわけだ。普段であれば、窓の外には北海道の延々と続く濃緑の原生林があるのだが、生憎外は雨。そのような景色は望むべくもない。というわけで、せめて想像の世界では無窮の大空に飛んでいこうか。

 私は名前を持たない。現実世界の私は名前があるのだろうけど、ネットの海に揺蕩う私に、名前はない。名前とは、いわばその人の目印のようなものだ。私達はそれ無しには物体を認識できない。

 一例を挙げれば、ハンドルネームだ。公的に戸籍へ登録されている名前には「名前」以上の価値があるかもしれないが、匿名掲示板……5chや各種SNSでは極論「名無しさん」でも何ら支障はないのである。

 それでも、わざわざコテハンを用意したり、何かしら意味のある単語を組み合わせて名乗る。主体的に、画面の向こうへ自らの存在を訴えかけるのだ。

 反対に言えば、主体的に名乗る必要が無いのなら、そこには名前の無い個人が残る。それは存在の無い声、幽霊と呼んでもいいかもしれない。

 だからこそ、いまここにいる「筆者」という私に名前はない。あなたはそれに「朽葉考」と、あるいは「めめとちゃん」と名付けて結構だし、なんなら「空亡」でもいいかもしれない。ありていに言えば、この文を誰が書いているかなんて同定できないのだ。例えば、ゴーストライターの執筆したものかも知れない。

 本来匿名になるということは、現実世界で口にできない事をネットの海へ投射する、それが目的ではなかっただろうか? にも関わらず、僕らは新たな名前を掲げ、それに意味を込めてネットの海、その標識となっている。

 普段「朽葉考」と名乗っているからこそ、このブログでは名前の無い個人として思考を吐き出せる。名前の無い個人とは、名前の無い怪物でもあるのだ。それは世界に如何なる怨嗟も振り撒く事ができるし、それを咎められる必要もない。私がどれだけ世界を祈ろうとも、呪おうとも、世界は変わりはしない。なぜなら、私には存在が無いからだ。





 「祈る」という言葉が出てきたが、今度はこれについて語りたい。祈りは、こと個人への祈りは大きな枷となりえる。なぜなら、願いとは「かくあってほしい」という願望だが、祈りは「かくあれ」「かくあらん」という当人を束縛する「呪い」へと変貌しうる。

 想う事は強い。言葉は言霊が宿るというが、言葉を向けられた当人にとっては、それが重圧となる。あなたのあなたらしさは、「祈り」ではないだろうか?「呪い」ではないだろうか?

 この文に意味はない。祈りも呪いもなく、生きる事が正しい友言わない。ただ、祈りと呪いは表裏一体、想いは重い、それだけのことだ。ちょっとだけ、心のどこかに留めておいてほしい。いつか、考察に使うかもしれないから。




 これは善意だ。そして、善意ほど恐ろしいモノはない。

 善意は人間のものだ。そして、人間とは恐ろしいものだ。人間とは醜いわけでもないし、美しく無垢なものでもない。道徳も、神も、祈りも、呪いも、法もなくとも、人は人として生きて、人として死んでいく。

 それは、なにより尊い人らしさだと、思う。

 だからこそ、それを捨てる事は本当に正しいか?好きに生き、理不尽に死ぬ。その権利は、本当に捨てていいのか?心に問うと、それもまた一興だと思えるのだ。

 死は万人に固有な可能性だ。受け入れなくともやってくるし、待ってくれない。必ず終端に死がある。そして、終端は決まっていても、私達の死に至る道は決まっていないのだ。

 どうせ死ぬのだ。それを受け容れ、なおも腐らず、死ぬまで生きようじゃあないかね。価値のないガラクタのような私にも、輝く物があるのかもしれないさ。泥に咲いた蓮の花も、光から逃げるように溺れるのなら、私だって糸を探す哀れなカンダタであってもいいじゃないか。

 ハッピーエンドだって人の物差しで基準は変わる。なら、私のトゥルーエンドは私の物差しで決めさせてくれ。そのオチが新宿エンドでも構うものか。それが選択だ。それが先駆だ。それが答えだ。

 自暴自棄?そんなちっぽけな感情じゃない。心の隅のアクセルを少し踏み込んだだけ。そんな心境だ。