朽葉考集録

めめとちゃんの雑記帳です

没個性、と笑うなかれ

 問1。あなたの知るキャラクターから個性を剥奪していくとして、それはどこまで"そのキャラクター"と定義できるだろうか?

 問2。では、キャラクターから個性を剥奪し続けて、そこに何が残るだろうか?

 問3。キャラクターとは、何だろうか?また、個性とは?


 今回は「遙」考察の補完も兼ねて、キャラクターとその個性について思索していこうと思う。多分「遙」に直接触れることは少ないので、一読してもらえれば幸いだ。


 前提として、今回文中で用いる「キャラクター」とは"ある物語の中に登場する、なんらかの特徴を持ち合わせた個人"とする。具体的に名前を出すと後でややこしくなる気がするので。


〈問1〉
 まず、問1について。キャラクターには何かしらの特徴があるものだ。服装、髪型、性格、口調、バックボーン、なんでもいい。重要なのは、私達がそれによってキャラクターをそのキャラクターと認識できるか否かだ。


 例えば、よくある入れ替わり物のストーリーでは、キャラクターの外見が全く別のそれとなっても、私達は口調や性格からそれがどのキャラクターかを同定できる。

 つまり、個性とは一つ欠けてもいけない物、というわけではない。ある程度残ってさえいれば、私達はそのストーリー上のキャラクターAを判別できるのだ。

 である以上、ここからここまで判別可能、と明確に決めるのは難しい。それは主観的な問題だからだ。故に、問1に対して明確な解答は無い、と言える。





〈問2〉
 では、極端な話としてそのキャラクターから個性を全て取り除いてみよう。服装、髪型、性格、顔の造形すらも取り除く。そこに残るのは、原型を留めないマネキン人形のようなナニカだ。


 ストーリー上の一個人であることは大前提なので、それは分かる。だが、一切の特徴が明示されず、完全に個性を喪失した状態。それは何だろうか?

 それは、繰り返すが「マネキン人形」なのだ。創作者達はそこから肉付けを施し、一つのキャラクターとしての個性を保証し、新たな登場人物として世に放つだろう。

 つまるところ、個性を喪失した個人からキャラクターは作り上げられるのだ。そして、個性を奪うということはキャラクターをその「始まり」であるマネキン人形に戻す事に他ならない。

〈問3〉
 そのマネキン人形は無数にいる。キャラクターが生み出される数だけあるのだから。つまりマネキン人形という「全体」から特徴を肉付けされた個体が特異な「一」として出来上がるのである。

 だから、個の「一」が個性を喪失し、全く他と違いのない没個性な「無」へ近付くことは、存在を非存在へ限りなく近付けつつ、己を「全体」という膨大な「一」に揺り戻すことになる。

 言い換えれば、個はどれほど特徴を持ち合わせたところで全体の一要素であり、その特徴を減殺しようとも最終的には「全体のストーリーの一部である」という、その一点に帰結する。マネキン人形は顔の無い個に過ぎないが、それでもストーリー上の一部なのだ。

 そして、そんな顔の無い個の一つに一時的な名を貸し与え、全体にして無数の個である状態から独立させる。この場合の「名」とは性格であり、顔であり、服装であり……要するに、「キャラクターをキャラクターと同定しうる要素」そのものだ。

 それを幾ら捨てようと、元々「全体」の一部であったことは揺るがない。人にとって死が「追い越し不可能」であるなら、キャラクターにとっての誕生とは「巻き戻し不可能」な点である。

 顔の無い個も、特徴あるキャラクターも、ストーリーという全体の一部であることに変わりは無いのだ。個性とは、単にストーリーのフレーバーに過ぎないが、それを重要視する人が多い。これはキャラクター性への依存とも言えるし、個性への憧れとも言えるだろう。


〈おわりに〉
 私としては、キャラクター無しにもストーリーは描けると考えている。薄い個性の「個」は必要かもしれないが、重要なのはその世界そのものだと思うからだ。だから、その理論作りとして今回の記事を書いてみた。

 おそらく、否定的な意見の人もいるとは思うが。